思惑の落し穴

恋はすべてどこまでも片思いだ。

but it did happen



白木蓮吾 ──彼について、過去彼の隣にいたというだけの僕がこれを綴るのは忍びない思いももちろんある。彼のファンには僕を非難する人もいるだろう。

それでも僕はこれを書く。
永遠に外れる事のない足枷を引きずりながらも、それでも僕は生きていかなければならないのだ。
 
七年というのは、彼のいたずらな性格をまるごと詰め替えるのに足りうる時間なのだろうか。誰でも作れるようなラブソングを書いて彼は満足しているのだろうか。
いくら今の彼に不満を抱こうと、これは僕の介入できる問題ではない。彼自身がそこに身を置くことを決め、全うしているのだ。とどのつまり彼は、そういうところにいる。

どんな過去もいつかは美化されるのだろうか。
そうだったらいい。


「あなたが遺書に戻した『やるしかない。やらないなんてないから』という言葉」
「はい」
「あれはね、唯の遺書の言葉」
「それでそこにはね、『今までありがとう。うまれてきてよかった。ダンスやってよかった。そしてわたしはやるしかないの。やらないなんてないからね』ってあって……
 
「真吾、やれることの全てをなるべくやりなさい。やりたいことじゃないよ、やれること。私は今回それをする」
 
 

「これが俺なんだよ」
「いつからデュポンになった」
「そうじゃないよ。俺はデュポンを持たなければいけない人間になってしまった。ラブホのライターを持つことはできないんだよ」
「嫌みかよ」
「違う、白木蓮吾としてだよ」

そしてわたしはやるしかないの。やらないなんてないからね。僕はこの遺書の意味の全てを理解できずにいた。
ただそれでも……いや、だからこそ姉の方針を試してみたくなった。そんな時のスカウトだった。正直、表現できる場なら何だってよかった。りばちゃんには言えなかったけれど、僕の心持ちは随分と変化していて、とにかく姉に近づける行動を僕はしたかった。
モデルの仕事の報酬は決して対価とは言えず、むしろあの日僕は大層な贈り物を頂いたようだった。ロケバスの中からりばちゃんと話す彼女が見えた。再会したとき、僕らを除いて世界は一時停止をしたようだった。彼女は間違いなくサリーだった。冷凍睡眠させていた脳の一部が、自動的に瞬間解凍されるのが体温で分かった。僕ははっきりと、彼女を愛していた。僕の横には愛しいりばちゃんがいて、愛するサリーがいた。

やらないなんてない。そして僕はアドリブをした。
それがまた僕を芸能界という世界で大きく躍進させた。そこは楽しかった。気持ちがよかった。やりがいもあった。夢とか希望みたいなものがそこら中に散らばっていた。
姉ちゃん。こういうことだったのかな。

「セリフあげてください、彼と共演してみたいです」
りばちゃんにも体験させたかった。二人で一緒にこの道を歩こう。出来上がった七話の台本には僕らのシーンがちゃんとあった。一緒にセリフ合わせをした。最高だった。この世の全ての喜びはこれだった。これをきっかけに彼も評価を得るはずだ。二人で肩を組んで、共に芸能界で生きよう。

僕は安直にそう思っていた。しかし現実は違った。
鶴田さんも脚本家も、その後彼を起用する事はなかった。

それなのになぜか僕には次々に仕事が舞い込んだ。続々とオファーが来る。社会的評価は僕をもてはやした。しかし振り返れば僕の足跡は風に削られ、もうすでに引き返せないところに僕はいる。誰もが華やかと形容する芸能界は、思っていた以上だった。否応無しに僕は魅了され、そのめまぐるしさは走馬灯なんかとは比べ物にならない。

僕はこの世界に塗れ始め、価値観は大きく変わっていった。それ以外の景色が霞んでみえる。家に帰って掃除や皿洗いを平気でしているりばちゃんを直視できなかった。家事が嫌なのではない。ただ、彼はもっと輝くべき人間だと思うんだ。
僕の前にはいつもりばちゃんがいた。彼は僕のヒーローだった。そんな彼が今では僕より何キロメートルも後ろで止まっているように見えてしまう。いや、もはや見えない程に。僕の好きな彼の歌う背中を見る事ができない。
誕生日会はもちろん嬉しかった。でも、君はそんなことしなくていいんだよ。
僕はもう止まれない。僕を追い越すほどに彼に走ってもらうしかなかった。お願いだ。もっと必死になってくれ。そして僕と同じこの景色を早くりばちゃんにも見てもらいたいと願う。続々と決まる僕の仕事に、できる限りりばちゃんを出すよう小出水さんに交渉していた。

しかし彼はそれを拒んだ。どうして。

彼と共演する為に、仕事を与えているのに断るなんて正直許せなかった。また、部屋でセリフ合わせをしようよ。それとも僕といるのが嫌になったのだろうか。断るのなら仕方ない。あのような強引な手段にでたのも、いよいよ限界だったからだ。もちろんそれに加勢するのは芸能界による中毒作用でもある。
彼の反応は二つにひとつしかない。受け入れるか。断るか。
久しぶりにじっくりと見た彼の顔は鋭い憂いを帯びていた。新居を勝手に決めたことに怒るのは予想できたが、彼も新居を探していたのは誤算だった。それでも僕の新居に彼は来る。外観も内観も高級ホテルと見間違えるほどのマンション。充実した設備。なによりりばちゃんは一銭も出さなくていい。彼にデメリットはないだろう。
しかしなぜか彼の顔はより怪訝になっていく。唐突で強引な提案なのは僕も分かっている。疑心暗鬼になるのは仕方ないのかもしれない。
「事務所が二十万出してくれて、残りは俺が出すから、りばちゃんはなんにも出さなくていいんだよ」
「ケヴィンカンパニー」
僕が移籍する事務所の名をなぜか彼は呟いた。きっと小出水さんが言ってしまったのだろう。順序は狂うが、仕方なく僕は事務所を移籍する経緯、そしてその原因を彼にぶつける。自分らしくもなく攻撃的に。
「りばちゃん、何回も断ったでしょ仕事」
僕は彼にもっとこの世界で頑張ってほしかった。職場は家じゃない。芸能界だ。僕を存分に利用してでも僕の隣に並んでくれるのを待っていた。
しかし、彼はそれを拒んだ。
「断るんなら同じ事務所にいる必要ないよ」
移籍の話を僕にしたのは小出水さんだった。直接的な言い回しを避けてはいたけれど、ようするに僕が移籍すると諸々都合がいい。それは僕にとっても悪い話ではなかった。
移籍先の事務所の待遇もえらくよく、引っ越すのにもいいタイミングだった。家賃の高いデザイナーズマンションにしたのは、僕の実績とそれに伴う給料を彼に悟らせ、焦燥感を煽る目的だった。 
「違うって。俺は自分の力で」
「自分の力で今何してんの。家事と大学とバイトと時々教材ビデオ。俺みてらんないよ、りばちゃん」
「石川は知ってるのかよ」
 知らない。
「知ってる」
誰にも言っていない。これは二人の問題だ。
君に先に言わずに誰に言う。
しかし、僕の嘘による挑発は不発に終わった。


「すいませーん。今日はここまでにしまーす」
僕に内在する二色は混ざらずに分離したままそれぞれを汚し合い、それら自身を擁護する。それでも僕は強制的に混ぜることでしか、次の新たな記憶を留保する方法を持っていない。
 
りばちゃんを追いかけなかったことで、僕がどれほど彼を見下していたのかを理解した。彼をコントロールし、奮起させようなどという傲慢な考えそのものが、彼に対する侮辱と嘲笑だったと知ってしまった。それに気付き、僕は彼を引き止めることも連絡を取ることも、ましてや会うことも、いっさいがっさい放棄することにした。彼を置き去りにし、初めからいなかったかのように。
 
世界はときどき一時停止をしてくれる。
でも芸能界は違う。再生か、停止か、それしかない。
 だからやるしかない。そうだろう、姉ちゃん。

 親友を犠牲にし、この芸能の世界で僕はさらに躍進することを決意する。
 

「ごっち、ワーカホリックもいいとこよ」
彼女は僕とりばちゃんの仲を取り繕おうと躍起になっていた。しかし僕は分かっていた。僕と彼はもう完全に無関係の人間で、互いに支配、干渉することを求めていない。
何度も言うが、僕は止まれないのだ。速すぎる急流に逆らうカヌーのように、手を休めれば谷底に落ちてしまう。りばちゃんがここに来ない限り、僕は彼と接触することができない。それが芸能界に支払った代償なのだ。
「死んじゃうわよ、ワーカホリックは病気な……」
「うるさいよ。じゃあ君はウォーリアホリックだろ。心配中毒だよ。なんでもかんでも中毒とか病気とか。知ってる?人間の九十九パーセントは病気なんだって。病名つけりゃ何だって病気になんだよ」
 
「僕といるべきなのは君じゃない」
「私といるべきもあなたじゃない」
 
僕は何も変わらない。彼女を追いかけることもない。
 
 

「はい、カットー。本日ここまでです、おつかれさまでしたー」
僕の中で蘇るごっちはしっかりと呼吸をしていて、代わりに僕自身には酸素が行き渡っていないようだ。彼の二十年余りを一ヶ月で辿っているのだから、それも無理はない。
これはただの映画だ。娯楽だ。商業だ。そう言い聞かせても、彼を追いかけている僕の足は止まろうとしない。
 

ふと姉のことが分かったような気がした。
ステージという世界の魔法。幻想。姉の落下が故意でなくとも、それは表現として成功した。踊れなくなってもなお生きようとは思わない。生きているから踊るのではなく、踊るから生きていけるのだと。

姉ちゃん。そういうことだったんだね。俺もその時かも知れない。僕も姉ちゃんのように美しく舞い落ちようと思う。今なら姉ちゃんのように綺麗に死ねるだろう。
そしてちょうどいいほどに僕は絶望している。
もう死なないなんてないのだ。
 
 
「あのー……このあとって時間ありますか」
「あります」
「じゃあ飲みませんか」
「あ、はい」

バーで彼に会えたとき、僕はほんの少しだけ生き返ることができた。楽しかった。最後に童心に戻ることができた。鈴木真吾は僕の中にもいない。彼の中にだけいる。
僕は話せる限り、全てを彼に伝えた。
能動的に、時に受動的に。
 
「りばちゃん、流星群見える?」
「見えるよ」
「やっと見れた」
「うん。やっと同じ星、一緒に見れたな」
 
思ってもみなかった。彼をもう一度見ることが出来るなんて。彼は、ちゃんと、この地球で生きてる。
ペンはさきほどよりも進んだ。生きている彼へ書いているという実感がそうさせる。姉ちゃん。借りるよ。僕は誰よりもあなたに影響を受けたから。
 
今までありがとう。うまれてきてよかった。
芸能界に生きれてよかった。
そして僕はやるしかない。やらないなんてないから。



大きく息を吸い込む。そして吐く。椅子を蹴飛ばす。
視界はぐるぐると回り、まるで高いところから落ちているようだ。僕を求める観客の声が聞こえる。そして拍手の連続。喝采だ。
蓮吾。みんながそう呼んでいる。
大。みんながそう呼んでいる。

やがて光の奥には観客たちが見えてくる。客席は満員だ。赤城さんも小出水さんも田中さんもサリーもそこにはいる。あと、りばちゃん。いや、あれはごっちか。それら見えうる限りの表情は幸福だけを含んでいる。幕はたった今開いたばかり。パレードだ。皆が踊りながら行進し、その上を無数の透けたメダカとカワセミが鳴き泳ぐ。音楽は壮大なオーケストラ。なんという光景だ。なんと甘美で、なんと絢爛で、なんと気高く、なんと恍惚で艶やか、そしてなんて残酷な……。
 
君がみた世界に果てはなく、これこそが楽園だ。
絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中に僕は君と共にある。
 
ごっち。僕らはやっと共演を果たせた。
練習はもう、必要ない。
ざわめきも混じる歓声に包まれながら僕らは強く抱き合った。ライトはまだ、眩しく僕らを照らしている。


『ピンクとグレー』抜粋